ときに悲しくなること。
稲盛和夫さんの利他ではないけれど、自分のことだけを考えている人と接しているとさすがに辛くなってくる。
あまりに、心配して、それも人のことを心配するのではなくて、自分のために心配する人は、あまりに度が過ぎると辛くなる。
心配というのは、結局自分のことを考えているということだと思う。
目の前のことに必死になっていたら、正直心配している時間がない。
何かの条件があって、私は大変なんです、ということもあるだろう。
けれど、その思いの中に、どこかに誰かに、あるいは何かに対する愛情があれば、その条件も吹っ飛んでしまうこともあるだろう。
ラフカディオ・ハーンの『心』だったかに、「きみ子」という作品がある。
武士だった家が明治維新で没落し、亡くなった父の後を、母と妹を守り切って、自己犠牲に生きる、お嬢様だったのに、芸者になった、それはそれは売れっ子芸者になった女性の話である。
この女性は、私の憧れの女性の一人である。
この人の在り方を、美しすぎる、などという一言で済ますことはできない。
けれど、「きみ子」の周りの人々が幼く見えるくらいに、この人の求道心、自己犠牲の精神はすごすぎる。
誰にも靡かなかったきみ子。
無理心中をされそうになって、置き屋のお母さんのおかげで一命をとりとめたほどの執心されぶりであった。
男性が女性を愛した時にこれほどになるのか?というほどの描写が続く。
しかし、そのきみ子がとうとう靡いた若者がいた。
その若者のお家は、若者の恋煩いから命を救ってくれた人として、きみ子のことを受け入れるだけの度量のあるお家であった。
身請けされ、まるで新婚の夫婦のように一緒に暮らすきみ子は、いくら祝言を挙げようと言っても、首を縦に振らない。
坊ちゃん、家は地獄を見て来た女どすえ。
いつか坊ちゃんのことも焼き殺すかわかりまへんえ。
だったか、断りの言葉を後にして、忽然と姿を消す。
そして、いつか坊ちゃんのお子さんに会わせてください・・・。
という言葉も残して。
きみ子がいなくなって、世間は大騒ぎしてきみ子を探す。
新聞にも乗るような大騒ぎ。
でも、置き屋のお母さんも、当の相手の男性も、時間と共に、彼女の存在を忘れていく。
そんなある日、そのうちの男の子庭で遊んでいるときに、托鉢の比丘尼が現れる。
お手伝いさんが、お布施を入れようとしたとき、坊ちゃんからいれておくれやす。
とのことで、その男の子の頭を撫ぜ、坊ちゃん、お父様にお伝えください。
哀れな比丘尼が、坊ちゃんの頭を撫ぜて行きました・・・、と。
絶対にぜったにお伝えくださいね。
ハーンは書いている。
その父は、この哀れな尼僧の話を聞いて、涙にむせんだであろう。
それとともに、きみ子と自分との心の懸隔を思い知ったであろう、と。
求道の娘よ、仏の娘よ、というような表現をしている。
最後の時を迎え、土に埋もれるときに、仏はこの娘に微笑むであろう・・・、と。
私がこの話を好きな理由はわからない。
ただ、きみ子に私は激しく共感する。理由などわからない。まったくわからない。
この男性のことを、芯から愛していたのだろうし、だからこそ、その男性のしあわせが壊れる可能性のあることをしたくはなかったのであろう。
この二人が本当に夫婦になっていたら?と思わなくもない。
でも、育ち方の違い、見て来たものの違いは、その後の関係性に大きく影響する。
芸者の身で、おそらくは世の中の見るべきものは見た、というような境遇で、この純粋無垢な男性と一緒になって、しあわせになれるのか?というより、その彼をしあわせにできるのか?と思ったのだと思う。
いいカッコしている・・・、ときみ子のことを思う人がいるだろうか?
これだけ、人のことを思い、母と妹を守り切った娘を。
日本女性には、自己犠牲の精神がどこかで流れているように思われてならない。
中途半端な精神だと、それは決して美しくはならない。
けれど、ここまで徹底できたなら、それは十分に不遇な人生は昇華され、尊く気高いものになる。
幼くても、自分の大事なものを守り切ろうとする女性もいる。
その在り方は、もしかしたら理解されるとは限らないものなのかもしれない。
でも、徹底して大事な人を守るあり方というのは、それこそ人間様など相手していない、神だか仏だかわからない造物主と相対して生きているように思える。
そこには、もしかしたら、徹底した人間嫌いがあったうえでの愛があるのかもしれない、と思う。
お嬢さん育ちで世の中のことを知らなかった母。
芸妓にしてくれ、と頼んだきみ子の本名である愛。
あなたのお母さんにいっぺんにお金を渡したら、使い方もわからず、いっぺんに使ってしまはるから、少しずつお渡ししましょ、と言った置き屋のお母さん。
男の人を見る目を養ったうえで、妹に、絶対に大丈夫というような男性と娶せて、妹の夫婦生活も保障するような彼女。
誰のことも恨まず、誰のことも思わなかったのであろうか?
もしかしたら、そんな自分との闘いの末に、とんでもない求道心として昇華させたのであろうか?
年齢をもっともっと重ねたら、見えてくるものがあるのだろうか?