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菜の花や月は東に日は西にー与謝蕪村

私は、江戸期の俳人の中では、与謝蕪村が一番好きである。
とは言いながら、芭蕉の句を読むと、それはそれで、その天才に唸らされて、どうしようもなく感動する。

でも、与謝蕪村を愛してやまないのは、市井に居ながらにして、求道心をもち続けたからである。
極端な形での求道心は、全くほかの人たちとは隔絶したものとして追究しやすいように思う。

その一方で、市井の人として生きながら、その中で自分の芸術を追究するということは、なかなかに大変なことである。
いっそ潔く見えるたびに生きた芭蕉の方が迷いが少ないだろう。

人は、人の中で生きるから人間である。
まるで、洗脳されている方が、自己の中に混乱がなくて済むように、一つのことを、正しい、と信じて進むことの方が私は楽に思える。
何が正しいのか、誰が何を言っているのか、自分はどうなのか・・・?
常に検討し、恐る恐る歩いていく方が、一見自信なさげではあるけれど、自分ではない何かを畏れつつ生きているようで、私は尊く思える。
何か自分より高次なものに、これでいいのでしょうか・・・?と訊くような気持ち。

教条的に、これと言った決まりに添って歩いていくのは、ある意味容易な面がある。
けれど、これでいいのだろうか・・・?という気持ちというのは大事なのではないかなあ。
いや、自分を疑う、というのではなくて、何かに伺うというような。

別に信仰とかではなくて。神とかいうのでもなくて。
造物主というか、何かの法則性みたいなものに対して。

まだ若かった頃、たくさんの人数の教室へと向かうとき、自分ではない何かに頼っていたような気がする。
たかが自分の力など知れてる。
30~40人の生徒たちに、指導ができますように・・・、とどこか自分の力の不足を、何かに補ってもらいたくて、どこか祈るような気持ちでいた。
考えてみれば、本当に若かった。
肩書も、人に言えないほど重かった。
職業を聞かれても、自分がしっかりできていると思えないうちは、言えなかった。
そんな若いころが懐かしい。

公開:2022/04/09 最終更新:2022/04/09