一昨日見つけた、高校の同級生の記事に励まされて・・・。
このお写真、真っ青な空と、真っ白な雲・・・。
私は、空が大好きです。
飛行機に乗る機会があると、必ず窓側にしてもらって、もちろん大抵は読書をしているのですが、ときには、ずっと窓から空を眺めています。
まるで小さな子どものように・・・。
そう言えば、高校一年の終わりごろ、ブラスバンド部に所属していた私は、初めての定期演奏会を前に、私の心は、少々ストライキ気味でした。
先輩たちに、得も言われぬ怒りを抱いていたのです。
割に合わない立場でした。
しんどい立場なのに、理解もされず、ある意味不当な注意ばかりされていました。
不当でないと思われる注意に混ざって。だから余計に質が悪い。
大人になり、教職に就いてもまだなお不当であったし、それを言うこともできなかったことを思い出します。
もう、定刻には行きたくなくなっていました。
そんな折、いやいや学校への道を歩いているときに、ふと空を見上げたのでした。
あまりにも青くて、白い雲がのんびり浮かんでいて、ああ、私はこの一年、こんな伸びやかな気持ちを味わったことがあったのだろうか・・・?と思いました。
(かつては、3月にあった、国公立の二次試験の次の日も、空を見上げて、ああ、こんなにも受験が重たかったのだなあ・・・、と実感したのを思い出します。)
案の定、遅れて行った私に、指揮者の先輩が、厭味ったらしく、もう一人の同級生が倒れた(部活をさんざん休んでいた人でした。)と、部員全員の前で、まるで私のせいであるかのように、絶妙のタイミングで言いました。
(親御さんから勉強を強要された挙句のことでした。お母さまには迷惑をかけたから、とお詫びの品をいただいたくらいの話でした。)
あの場面を忘れられない。いえ、最近思い出したのです。
というより、私は最近、どれほど怒りをもっていたか、封印していたかを知ることになりました。
随分しつこいようですが、感情は思考より強いですから、閉じ込めていた感情は、冷静になろうと努めていた自分を裏切って、復讐するかのように、醜い自分を見せつけるかのように、何十年経とうが、いずれ浮かび上がってくるものです。
それは対外的なものではなくて、自分で解決するべきものです。
高3になって、勉強だけしていればよくなったとき、高校生活って、こんなに楽なものなのだ、と思いました。
部活の先輩や同級生のことを思い出すと、どうも、青春していた自分と同時に、良くない感情も出てきます。
もちろん、尊敬する先輩も、親しみのある同級生もいます。
ある年、自分が教育活動に行き詰ったときに、みんながどうしているのかネットで訊ねてみました。
やはり、私が尊敬できたり、人間的に素晴らしい、と思える方々は、素敵に活躍していらしたし、ああ、嫌だなあ・・・、という思い出の中にいらっしゃる方は、やはり、その印象の通りのようでした。と言うより、そういう方の文章は、事柄だけになっていて、こちらに気持ちが伝わってこないのです。
そんな高校時代の思い出の中心人物ではないけれど、どうしても印象に残っている人がいました。
名前も覚えていて、その場面を予備校の同僚と一緒に、進路指導の相談を受けてちょっとおしゃべり程度に話していたら、その予備校の同僚がからかって、○○くん、○○くん・・・、と三連符のリズムで言うので、そうだ!彼は今、何をしているのだろう・・・、と思い着いたのです。
なんだか母校からは大量生産的に、オーソドックスに男子が進学する大学の、心理学系の学部を目指している・・・、と聞いていたので、なんだか母校の近くでサラリーマンしているイメージがありました。
名前を検索してみると、ヒットしました。
エッ!?エッ!?エッ!?
印象に残るはずでした。
当時から意志の強そうな人でした。
卒業式のときに、あの大変な学校を皆勤で通されたことも知って、驚き呆れました(正直呆れる方が強かった。)
使命感を強く要求される仕事をされ、留学したのち、研究をされ、そして、それ以後、とんでもないことをされていたのです!
華々しい、と言えばちょっと違う・・・、けれど、人間性と粘り強さと、縁の下の力持ち的な地味な努力が必要な仕事をされていました。
もう、気長いと自認する教師も真っ青な業績でした。
したいから、という理由だけで進める道ではありませんでした。
これは不謹慎な話ですが、部活の中で、その同級生と同じ仕事に就いた人を、私は尊敬できませんでした。
あの人たちがなるのだから・・・、とある種の偏見さえもっている仕事でした。
だから、お世話になるときには、表面上、敬意は示しても、どこか冷めた目で接しているのが、自分でもわかりました。それが原因なのかはわかりませんが、むしろ私はどこに行っても、私の要件ではなく、お世話になる方のお話をお聴きする羽目になりました。
たとえば、「お母さん、ものの本で読んだんですが、札幌では○○○○体制が整っているというのはホンマですか?」
大阪に里帰りした時、娘が調子を崩してお世話になった方からそんな質問をされ、内心、専門家でもないのに、そんなん知らんがな!でしたが、
「まあ、夜間に何かあったときには、たしかに行くところがありますね・・・?」とお答えしておきました。
たぶん、そんな態度の人はいないだろうな、と思うくらい、私は失礼な態度であったのではないかしらん?
それが、件の同級生が、その仕事の、私の中でのその仕事をする方々の値を、一気に引き上げてくれました。
そして、理解もできるようになりました。一人の人間としての苦悩もあるだろうし、使命感の中での葛藤もおありだろうな・・・。
それまでずいぶんバイアスがかかっていたものだと思います。
でも、そんなものだと思うのです。
よく言うのですが、母校が(特に大学が。)何してくれる?
まあ、各地に同窓会があるから、そこで先輩から仕事の依頼、というくらいはあるかもしれません。
でも、母校の値打ちを下げるのも簡単、上げるのは自分の努力。
大学が自分に何もしてくれない。
何かできなかったら、○○大学出てるのに・・・、にされ、できなかったら、さすが○○大学!になるだけの話。
それ以上もそれ以下もない。
それと同じことを私もしていたようです。
部活の○○さんが嫌いだったから、○○の仕事の人は○○、みたいな考え方をしていたのだなあ、と気付いたのです。
どんなこともそうです。
出身地もそうだし、学校もそう。
個人がいるだけ。
土地柄も校風もあるでしょう。
でも、それはそれだけ。
件の同級生の文章からは、仕事は全く違うし、とても私などができる仕事ではないのですが、でも、どこか人を想う気持ちは、よく似ているなあ、と思ったのです。
たまたま、私は高岡法科大学の寄付講座で、その同級生の所属している団体の理事長(高岡高校ご出身。)のお話をお聴きしたことがあったのです。
私は19の時から一切親からお金を出してもらっていません!
誇らしげにおっしゃったその方のお話は、とても印象に残っていました。
そんな理事長率いる団体の機関誌の、栄えある記念号のトップを飾って、インタビュー記事が載っていました。
なるほどね・・・。
印象に残るはずね・・・。
私の、消しゴムで消したかった、高校時代の思い出を、明るく塗り替えてくれるほどの記事でした。
でも、その記事、検索もしていないのに、なぜか出てきたのです。
一昨日の夜に・・・。
なんで?というような巡り合わされたようなタイミングでした。
私にはこういうことがよくあるのです。
開業してから、仕事について考えたときに、その人のことをよく考えました。
もっと頑張っている人もいるのだから・・・。
人の役に立ちたい・・・。
まるで「仕事の神様」です。
ちょうど、この3年間ほどかけて、方向性を探って来て、こうしよう、こうしていこう!と思っていたときに出会った記事でした。
それに、以前よりどこか考え方も仕事も進化されているような気のするインタビューでした。
私も、これからまだまだ進化していきたいなあ・・・、と思わされる記事でした。
誰かの行いが、誰かの思い出の、嫌な部分を構成し、誰かの行いが誰かの思い出の素敵な部分、そして毎日の仕事や生活を豊かにしてくれる。
できれば、自分も、誰かの思い出の中の、素敵な部分に属することがあってほしい・・・、と切に願ったのでした。
ああ、これで、私の長年にわたるI高アレルギーは払しょくされるのだろうか・・・?
長年、高2まで追っかけ回されていた数学のせいだとばかり思っていたけれど、真に嫌だったのは、ああ、そういうことだったのか・・・!?と気付いてきた数年でした。
思い出すのも嫌な人、というのはいるものだなあ、と思います。