星野源さんの言葉ー『MIU404』第4話についてのお話から。
実は、今、星野源にハマっている。
最初は面白がって、ニセ明などの方の源さんを観て笑っていたのだけれど、この人を知るほどに、ああ、深い人なんだなあ、と思うようになった。
優しさや、思いやり、気配りとなって、今までの生き方があれこれが見え隠れする人のようだ。
ゴールデン・ウィークが、結構忙しかったので、昨日、お休みをいただいた。
めずらしく、なんだか効率よく、ほかの先生方にご協力いただきながら、お休みをいただいたり、ちょっと出かけたりしている。
その中で、You Tubeで、星野源さんが、『MIU 404』という昨年放送されていた番組の、第4話について、話されているのを聴いた。
いつもは、むしろかなり軽い話をする場らしいのだけれど、ラジオ番組の中で、
ー社会的には、バッド・エンドかもしれないけれど、それは本人にとっては、とってもハッピー・エンドだったということもある。
ということを話しておられた。
ご自身の感性もそういう面がおありのようだけれど、何がしあわせかは、その人によって変わる。
それを、周りが決めつけて、一つの価値観で、気の毒、とか不幸だとか言うのは、どうか?という話のようだった。
いやはや都合よく解釈しているのかもしれない。
私は、人の状態について、気の毒、という表現をあまりすることができない。
そのときの気分を察して、辛いだろうなあ、とか、今は過ごすことがきついだろうなあ、と思うことはある。
でも、そんなに容易に、人の状態を可哀想に思えるほど、どの人の人生も、簡単なものではないのではないか?と思うのである。
もしかしたら、周りから最悪、という状態が、当事者にとっては、そうでないかもしれない。
私自身、なんでこれがしあわせなのか?とわからないことがあって、でも、いつもしあわせ、と勝手に決めつけられて、なんか変だなあ・・・、と思ったことがあった。
一方、当の本人が、これで良かった、ちょっとはこの強行軍をほめたたえてほしい、と思ったときには、気の毒、という扱いをされたりして、戸惑った、ということもある。
人によって、しあわせをどこに感じるか?ということは違う。
勝手に決めないでほしい、と思う。
一方で、スタンダードな基準というものが存在することも否めない。
そこから外れたら、やはりどこかでそれなりの扱いを受けることになる。
自由であることと、社会で生きていることとは、背中合わせなのかもしれない。
でも、その違和感による大変な苦しみから来る痛みや考えは、たぶん人の普遍的なものに触れることになるのだろう。
かつての平安時代の女流日記文学のように。
どんなこととも反発しないように見える人の姿から、考えさせられた。
しあわせということについて。