小池真理子『月夜の森の梟』を読んでー高岡の個別指導&相談室チェリー&ハッピー
「年をとったお前を見たかった。見られないとわかると残念だな。」
この言葉に私も惹かれて、この本をアマゾンで注文した。
エッセイとして連載されていた同時期に書かれた作品である『神よ憐みたまえ』も一緒に。
とはいえ、そのどちらも最近まで読めずに書棚に、ならまだいい、文字通り積んどく状態で私の部屋に置いてあった。
長年連れ添った妻に、いくら死の病に冒されているとはいえ、そんなことを言えるなんて、いったいどんな夫婦やねん!?と思ってしまった。
今もその思いは変わらないし、奥様である小池先生のエッセイを読み終わった今でも、正直、ほんまかいなという思いでいる面を否めない。
でも、たった一筋わかるとすれば、本気で離婚を口にするほど、そしてそうならないほどに相手を必要とし、一生懸命に共に生きた夫婦なのだと思う。
もう離婚する!という本気の言葉を何度発したかわからないのに、それでも離れられない。
事実婚で子どもをもたないというこのお二人が、初めて一緒に暮らすことになったとき、一緒に不動産屋さんに行って、藤田先生がトイレに立った時、
悪いことは言わない。あの人はやめた方がいい。
と不動産屋さんに言われたという場面が好きである。
人の縁の不思議さ。男と女が惹かれ合うことの理不尽さ。
そのすべてが凝縮された言葉に思うのである。
どうしようもない男なのに、女なのに、あるいは世間的に見た時に、決して良い関係になるとも思えないのに、どうしたって惹かれ合い、離れられない男と女。
私は、文学なんぞを一応かじってきてはいるが、男と女などという表現が好きではない。というより嫌い。
本当に苦手。(笑)
文学を語るとき、そういう表現ができなければと思うものの。
とはいえ、古文の恋物語を語るのは、女性の気持ちに共感するのは得意なのにな。
もしかしたら、とっても美しい小池先生のように、年取ったおまえを見たかったな、などと言ってもらえるほどの美貌に恵まれていない女の、絶対にかなわない夢への嫉妬かもしれないけど?
いや、嫉妬・・・。ハハハ。
何でも嫉妬というのは、自分にも叶いそうなことや、自分の内面にもある能力に対して感じるらしい。
だから、もはや嫉妬もしないというのはそういうこと無縁だからであろうか。
だからかな。こんなに夫がいなくなってあれこれ淋しいなんて、わからんわからん・・・。