脱皮するときにはちょっとだけ痛み?いや、ちょっとした不調があるものだと思うこと。
かつて、何年もの努力が実り、周りの人にも受け入れられていたことを知り、それはそれまでの認知とは真逆のものだったので、私は少しばかり体調を壊したことがあった。それは嬉しい変化だし気づきだったのに、ふわふわしていた。
以前ほど力が入らないような気がして、私は、かつての直属ではない上司に電話で相談した。
あまりにもあっけなく自分を認めてあげられるようなできごとに(受験に合格したとか就職したとかなどの目に見えるものではなくて)、私は自分の身の置き所が亡くなっていた。なぜなら乗り越えなくちゃと頑張っていたことが、突然十分に乗り越え、馴染んでいたことが分かったというようなことだったから。
人間というのは乗り越えるべき何かがあり、目標とするものがあるから頑張れる。
それがいきなり、
あなたはそれが十分できてます!
と言われたら、永遠に努力しようとしていた課題がなくなったようなものである。
当時の私はしあわせである反面で当惑していたのだろう。
文学青年でもあるその先輩は、
ああ、「国境の長い長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった。」ではないけれど(私の先輩である作家の作品を出すあたり、なかなかしゃれた名言だなあ、と思ったけど。(笑))、長い長いトンネルから抜けて、いきなりお日様の光に、くらくら―っと来てるみたいなものなんだな。
と言ってくださった。
その方は、私がしなければならなかったことについて、
行って来たらいいんだ。罵声浴びせられたとしたら、浴びせられるほどいいんだ。
とアドバイスしてくださっていた。
罵声浴びせられたわけではないが、そんな事実はどこにもなくて、自分がもうとっくに受け入れられていたということを確認するだけの話だった。
自分の立場を守ろうとして、誰かを悪者にしなければならない人の作り出した話をそのまま信じていたのは誰あろう私であって、そんな話はどこにも通用していなかったのだった。
先日も、誰かのせいにしたら楽だからね。
と言った人がいらした。
眼前のうまくいかないことに対して、自分が上手に処理できないのは、それは周りの人のせいだ、と言えば楽である。
先日の方は、元教員の方で、
生徒に言うことを聞かない、と言ってしまえば楽だから、ね。
とおっしゃっていた。
親御さんが自分の子の行状や困っている状況を先生のせいや友達のせいにすれば楽なように、そうすれば自分は変わらなくていいので、先生だって目の前の生徒が悪いことにすれば、自分を変える必要はなくなる。
かつて職員室で、尊敬する先輩が、生徒の生活指導上の問題をその類型論的な家庭環境論にしていて、ちょっとがっかりしてしまったことがあった。
そういうものを、つい類型論で片付けて、教師が動かないでいい方向にするのではなくて、個別具体に落とし込んで、対応するのが教師だし、正直生活指導的には、一瞬をしっかりその子に対する方が、時間が掛かるようでいて効率的に指導が入る。
目の前にいる生徒に、あるいは、夫に、妻に、子どもにしっかりと向き合うことで、その後の関係がしっかりしたものになる。
それを目先の容易さに目がくらんで、しっかりと向き合わなければ、そのあとつけが回ってくる。
何の人間関係も築けていなかったり、それで一生懸命に頑張って来たのに・・・、と言っても本質的なところから逃げていてはいいことにならない。
一瞬をその子に気持ちを向けただけでその相手の一生が変わることのあるのが教育の世界だと信念している。
たった一瞬、自分がその子に対したことが、その子の一生に生きるかもしれない、と思いながら、毎日指導している。
一生懸命に育てた卒業生たちの活躍を耳にするときほど嬉しいことはない。それこそ彼らと対した、一瞬一瞬の思いを思い出すことが多い。当時は結構苦悩したけれど、ああ、それでよかったのだ、と思えることがあり、そんな時は本当にしあわせな気持ちになる。