誰かのためにと思っていると、いつの間にか自分のために何かをすることになっているということ。
甘いという誹りを受けても仕方がないのですが・・・。
私は誰かの、自分のことだけを考えている、と思われる姿に接するのがとんでもなく苦手です。
若いころ、自分が教諭として赴任した学校の先輩に非常勤講師の先生がいらっしゃいました。
同じ教科だったし、それぞれの立ち場を考えると、一緒に働かせるのは非常に効率が悪いだろうに、部署が同じで、大変でした。
ときに、その先生が、こころを開いてくださっていたのでしょうが、私に、人事についてのあれこれをおっしゃるのです。
そんな時に私は返したのです。
私は、採用通知が来ても、もしかしたら現場に出てみたら、講師ということもあるかな?と思っていました。そういうことがあるのが社会だと思っていたから。それに、私は自分の立場より、教師として授業できるということの方が大事だと思っています。
私は思ったのです。
私たち教師が目の前の生徒に何ができるか?ということが一番大事であって、その次に自分の立場について考えるかもしれない、と。
それに、その先生は、目の前にある仕事に精一杯するのでもなく、次の仕事のことばかりを考えていらっしゃるように思ったのです。
目の前の与えられた仕事に一生懸命になったら、杉のステージがやってくるのだと思います。
自分に与えられた仕事を懸命にやらなくて、次はないと思っていました。
自分にとっても不都合な人事でした。
人間は情で動きます。
当然先輩を飛び越して教諭になった私より、年上のその先輩に気持ちは寄せられる・・・、と当時は思っていました。
そんな簡単なものではないということも分かったのですが、あまりにご本人の苦情をお聞きしていて、先輩面して上から目線のその方といると、どうせ自分が頑張ったって、周りはわかってくれないわ・・・、と思っていました。
それでもその当時の自分に課されたことだと思い、精一杯務めていました。
自意識過剰になるな、と言っても、誰だって人の目は気になります。
でも、経験上思うのですが、ときに笑われることはあっても、一生懸命にやっていれば周りのことなど目に入れる余裕はなくなってくるし、誰かのことを考えている暇もないはずです。
目の前のことに必死になること、自分のするべきことに集中すること。
隣にいる人が与えられている課題はまた自分の課題とは違うと思うのです。
受験生にこんなこと言ったらそれは酷な話です。
若い人にそんなこと言ってしまったら、なんて人だと思うでしょう。
比較対象があるから努力するとも言えます。
が、正直比較している暇があったラ自分のするべき努力をするのが一番早いと思います。
私の母は、こともあろうに、私に向かって、
その先生の気持ち、私、ようわかる・・・。
と言っていました。
本来なら我が娘の味方をするのが親だと思うのですが。
親の態度も含めて、私の課題だったということで。