ふるさと大阪での仕事を評価していただいたというような気分ー名医から名医への賛辞
娘が2歳の夏から秋にかけて、大阪の実家の母が大阪の病院で先天性股関節脱臼のための手術を受けました。
私は娘を連れて、まだ在職中だった父と連携して母の入院、手術のための世話をするために帰阪しました。
その頃はまだ富山市に住んでいて、富山に帰ったその直後に札幌に飛ぶことになったのですが、とりあえず、その夏から秋にかけては思い出多い日々となりました。
私の人生の中でもなかなかに心に残る日々でした。その1年後には息子が生まれていて、逆に里帰り出産で実家の世話になったのですから、おもしろいものでした。母は関空から札幌までの飛行機に乗る私たちを送ってくれた時に、みんなのいるところで、
今度は、○○ちゃん(息子。)いてるから、なんや赤ちゃんや言うても男の子なだけに、見送るのも心強いわ。
と言ってくれました。
遠方に嫁ぎ、転勤もする娘の生活を、母はどんな思いで見守ってくれていたのかよくわかる言葉でした。本当に心配を掛けてきたものです。
こちらのお母さんが、妹さんのところの旦那さんの妹さんもお母さんが入院中はお手伝いに来ておられたとのことで、私はすんなり大阪に帰ることができました。正直、長男の嫁として許されるだろうか?と思っていました。嫁に来て以来、お正月を大阪で過ごしたのは、1年目の娘の里帰り出産の時だけでしたから、そんなこといいのかな、と思っていたのです。
父も妹も仕事を持っていましたから、私が娘を連れて毎日病院に通っていました。娘を妹に預けて、手術後の数日は、病院に泊まり込みもしました。自転車の子供用の椅子を持って行って、実家の自転車に付けたら何とでもなる、と思っていたことがとんでもなく役に立ちました。
毎日毎日、麦藁帽をかぶせて、それに母に少しでも可愛い娘の姿を見せたくて(実家の両親にとっては娘は初孫でしたから。)、私は毎日可愛いお洋服を着せました。
こちらのお母さんに買ってもらった、サッカー地の赤と白のギンガムチェックを細かくしたような袖なしのワンピースに麦藁帽を被って、駐輪場から病院の入り口までの通路を嬉しそうに、真っ赤にほっぺを紅潮させて駆けていた娘の楽しそうな姿が今でも思い浮かびます。
父と妹は仕事をもっていましたから、どこかで無理も来ていたのでしょう。
2人の間を取り持つのが結構しんどかったのを思い出します。
いつもは最大の相談相手になる母も、入院中は心配するようなことは私に聞かせないで!という姿勢でしたし、当たり前ですし、小さい娘を抱えて、結構精神的にも参っていたのを思い出します。
思えば今の娘よりもまだ若いころ。正直、よく母親業を恥ずかしげもなく、お母さん、と呼ばれながらやっていたものだと思います。(笑)
当時母の主治医をしてくださった研修医の先生が、母はこの先生が大好きだったのですが(なんでも漢方の胃薬をよその病院の内科でいただいていたのを見つけて、「こんなもん、飲んだらあかん!」と持って行かれたそうです。どうも母は、自分から薬を奪い取ってくれるような親身な先生のファンになるようで、富山にもおられます。母がファンの先生。(笑))、つい数年前まで学校現場で忙しく働いていた私には、その大変さが眩しく羨ましく感じられました。それは子育てをしている楽しさとは別のものでした。生意気にも、私も注意されて、私は憤慨してました!(笑)
母校から一番多く入学する大学のご出身だったらしく、まだ若い私は、きっといいないいな、と思っていたに違いありません。(笑)
娘がちょろちょろするので、気を付けてくださいねー!と偉そうに言われた!とやっかみ半分怒っていました。でも、とんでもなく素敵な先生でした。母とその先生が記念写真?を写したのを送って来たので、書棚に飾っていたら、夫が怒った、というおかしなエピソードまでありました。
どうも私とは発想が違って・・・。いや、きっと私の考え方がおかしいのでしょう。
勉強できる人がいたら、少しでも自分の学びが向上されることを祈って・・・、となるわけで。(笑)
その病院は、股関節の手術で有名な病院で、全国に知れ渡った名医がおられました。
母からではなくて、そのお名前をお聞きすることもあったので、とんでもない方だったのだろうと思います。
手術後父と一緒にご説明を受けました。
偉大な偉大な先生。
昨日、整形外科に母の付き添いで行ってきました。
レントゲンを撮ってもらった後、診察室に入ったとき、母の主治医の先生が、
すごいねー。
とおっしゃいました。一瞬何のことかわかりませんでしたが、
昔の人は凄いですね。これ、30年前の手術でしょ?こっちは11年前で。こんな腕を持ってる人がおられたんだなあ。
私は、それまで何度か付き添いに行き、入院中の回診や、ちょっと部屋に来てくださったときにもお話していた先生でしたが、そのときに、自分の気持ちが解けるのを感じたのでした。その日はいつもはどこかにこんなこと聞いていいのかな?と思いながらお聞きしていたことを、すんなりお聞きすることができたのでした。不思議な感覚でした。
特に薬についての質問には気を遣います。
私は大阪から来ました。
ことあるごとにお母さんからは、「富山県は閉鎖的やからねー。」という言葉も聞いてきました。
ただ、どこにも閉鎖的で、私を受け入れてくれない、というところはなかったのですが、私など生意気だから、先生にも生意気な質問をしないか、きっと気にしていたのだと思います。
大阪では、どうも、どんなに賢くても、勉強をされても、どうも偉くならない感じがあります。
どうも大阪弁がその原因になってしまっているような気もするのですが、
小児科の先生などは、
娘が札幌から飛行機で来たの~。
などと言ったら、
そうかそうか、今度おっちゃんも一緒に連れて行ってな!
とおっしゃったりします。
一方、高岡でだって、小児科に行けば、
白身の魚がいいけど、今、なにがいいかの~?カワハギは高いか?
などと言っていただいてきたのです。
風土の違いを意識しすぎて、私はどこか構えていたのかもしれません。
眼科に行っても、視力が落ちた原因を探していて、先生が、あるお薬を指さして、
「こいつが原因やと思うがいちゃー!」と言われたら、
「そんながですかー?」と返している自分がいます。
そんなとき私はすっかり高岡の人間です。
ただ、大阪の名医について、褒められて、私の心は心底解けたのだと思います。
それまでどこかで失礼があってはならない、と思ってきました。
ましてや、大阪でとは違って、どうも先生業(教師)が偉く扱われそうなところです。
それでなくても私の仕事も生意気に見えそうな仕事です。
家族に関わることでどこかに行くときは、いつもとんでもなく構えていたのだと思います。
昨日は、すんなり質問をし、いつもは質問をした後、必ず失礼なことを言ったのではなかったか?と自問自答し、専門家でもないのに、知った風な口を聞いたのではないか?と気に病むのだけれど、昨日は、なぜか今までそうとも意識したこともなかったのに、初めて大阪と高岡が私の中で滑らかにつながったような気がしていました。
どこかで断絶があり、それを出してはいけない話題のように思っていました。
特に自分より年配の先生なら、そこは許していただこう・・・、とも思うのですが、自分よりお若そうな先生方には相当気を遣ってきました。
そんな気持ちをいつもお世話になっている先生に聞いてもらおうとしたら、
そんなん、気を遣う人に気を遣うな言うたって、気を遣うやん。
と言われて、私は絶望しました。
無用な神経を遣っている、と思いながら、どうしようもなかったのです。
ちょっとだけ泣けてきました。
ちょっと自分がどれだけ気を張って来たか?ということに気づいてしまったからです。
新参者として、いつまでも新参者が入れていただく意識を持って、だからこそ、こちらでの行事には絶対に気を抜けないと思ってきました。
私のせいで、大阪人は、関西人は、となってはいけないからです。
正直、母にも言われますが、私は気質的には大阪より富山寄りな気がします。
コツコツ努力し、真面目で粘り強い気質が合っています。
大阪にいるときは、大阪生まれの大阪育ちであることを疑われていました。
夫にも言われました。
お前がこっちで生まれ育ったら、めちゃくちゃ大事にされるタイプやなあ、と。
昔の人は、という表現で、関西は、でも、大阪には、でもなく、先輩のエキスパートの仕事について、その腕について、率直に感動された先生の姿に、私の気持ちは、それまでの構えた気持ちは解けて、そして、ようやく富山を終の棲家としていてもいい場所、と思えたような気がしています。
そして、同じ専門の方の自分より先輩の(先輩でなくてもそうだったのでしょうけれど。)、素晴らしい仕事を率直に素直に素晴らしいと褒められた、その先生こそ、本当に名医なのだなあ、と思ったのです。
安心して大事な人を預けることのできる先生だと思っています。
それにしても、たくさんの先生方にお世話になっているものです。お世話になることで、その土地に打ち解けていく、ということもあるのかもしれないなあ、などと思えてきたりしてます。
どこか頼るのが下手な自分が(と言いながら、たくさんの人のお世話になっている自覚はあるのですが。)、そういうこともあるのだなあ、と生き方まで考えさせられているようなところがあるのです。