切ない想いーたった一言がほしい。
ある人からたった一言ほしい言葉があり、それを言われないがゆえにいつまでも悩むことがある。
実はある人がいなければ生じない人間関係において、私は少々困っていたことがあった。
本人は気付いていないし、なんだか変だな、という程度に思っているし、こと荒立てるのは大人としてどうよ?という程度のことなのだけれど、ちょっと不安定になる要素もあるもので、小出しにしてしゃべっていた。
ある時は愚痴めいて、ある時は苦情めいて、わかってほしくてあれこれ言っていた。
先日、私の調子がおかしかったのか、私はとうとう爆発した。
ときは受験指導真っただ中である。
私がこれこれ不快な思いをしている・・・。
ということを分析し出し、それを表現した。
そしたら、その本人を非難するだけで、そういう思いをさせた、ということに謝罪がなくて、私は呆れた。
なんで、誰かのためにしていることが原因で、私が嫌な思いしていることについて何にも言われないのか?
確かに私と相手あってのことだけれど、その原因になった人が、直接関わっているのでなくても、そこは、
あなたをそういう気持ちにさせてごめんなさい、とか、負担を掛けてごめんなさいね、くらい言ってもらってもよさそうに思うのである。
しかも分析を始められたら、いったい何をしているのかわからなくなる。
私がおかしいな、と思っている人に対して分析を始める、というのは本末転倒である。
昨日、そのことで友人と話していたけれど、なぜ不快なのかを説明していないので、話が違う方向に行ってしまった。
どうも私が白黒思考の、一か百か?というような人に思えたらしく、そのご返答に、私は参ってしまっていた。
その人のことも分析し始めた。そのことをあれこれ言うのは違うと思う。
分析したり、その相手をどういう人かという結論を出してほしいのではない。
私の気持ちに寄り添って、辛かったね、それはしんどいね、申し訳ないね、と言ってくれたら、我慢もできる。
男性と女性の違いはいろいろある。
平等とか公平とか言う前に、そもそも身体もホルモンも違う。
だから、何もかも一緒にはならないと思う。
また、違いをあれこれ言い出すのは憚られる時代になってきたようにも思う。
それでも、私は女性賛美も含めて、何かあったとき、結論を出したり分析したりせずに、その気持ちに寄り添って、善悪言わずに大きくそのまま包み込むのが女性の大きさであり、素晴らしさだと思う。
悩んだときに、それは辛かったね、しんどいね、申し訳ないね、と言ってくれるだけで、事態は全く変わらなくても前に進むことができる。
かつてある人が言ってくれた。
何も変わらなくても、彼女の前で、彼女が困っている人の前で、その人に対して、あなたがちょっと言ってあげるだけで、彼女は安心するんやと思う。何かを大きく変えようというような複雑な人ではないから。
そうそう、私はよく単純だと言われる。
予備校の同僚に、
先生は単純な人でしょ?いや、褒めているんですよ。
と言われたときには、自分でも嫌でもなく、そのシンプルさを指摘されたものとして、私は嬉しかった。
こんな年齢になってもまだ、私はある人の一言を待っているのかもしれない。
もう何十年も待って待って待って、それでももらえないその一言を。
そういうことって、気付かない人は気付かない。
おそらく責任の所在を考えて、その責任が自分のものになることが怖いのではないか、と思う。
私なら、夫であれ、子どもであれ、親であれ、私のために何か不快な思いをさせるようなことがあったり、困らせてしまったとしたら、直接自分がしたことでなくても、謝るか庇うか、とりあえず、自分のできることはするだろうし、そのことについて気持ちを寄せているということだけは最大限に示すだろう。
おそらくは、絶対に言われはしない言葉を、ずっとずっと求め続けて生きていくのだろうな。
いつになったら、この件解決するのだろうか?
こういうことがあるたびに私の心は何かをがさッと抜かれるかのように、乾いたというのか、とんでもなく挫折した気分になるというのか、とんでもなく寂しくなる。
一生懸命に愛してるということだけわかってくれて、ありがとう、と言ってもらえたら助かるのにな、といつも思う。
そういう人、という割り切り方は、きっと私にはできないことなのだろう。
なぜなら、おそらくは私なら、さっさと謝ったりねぎらいの言葉を掛けてしまうから。
なんで?なんで?と思うのはつくづく幼いとは思うけれど、それでも私のインナーチャイルドが、それを求めているのだろうな。