お知らせ

チュッチュッ!とキスをしていた私。(笑)

そういえば、○○年前の今頃は、生まれてきたばかりの第一子である娘を抱っこして、しょっちゅうチュッチュッ!とキスをしていた。
なぜ赤ちゃんは、キスされると喜ぶのだろうか?
愛情を感じるのか嬉しそうにしていた。

抱っこしてチューチューキスして、可愛がって可愛がって世話していた。
なんでこんなに楽しいのかな?と思っていた。
毎日成長するし、毎日顔が変わっていった。
おまけに生まれたての娘を抱っこして、音楽に合わせて踊っていたりもした。
当時、そんな状態だったから、kissという一番レフがほしかった。
性能ではなくて、我が子を撮りたい気持ちというのは、まるでキスするように愛しい気持ちだということを知っていたから。

よほど嬉しかったのだろうな。
とにかくいてくれるだけでよかった。
存在自体が喜びで、もう嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
娘もこちらの気持ちがわかっているのか、ニコニコしていた。

あんなにしあわせな経験はなかったと思う。
受験に合格したとか、何かできたとか、就職できたとか、そういう、何かを達成したという喜びとは違って、授かる喜び。
自分の力でどうすることもできないけれど。

何かを自分の力だけでなく授かるのだという経験をしたのは、それをこそ実感したのは始めただった。
受験の時も自分の力だけではなくて、周りの力もたくさんいただいて・・・、と感謝していたけれど、子どもを授かったときほどその実感はなかった。
受験指導をしていると、何か目に見えぬものの力が働いているように思えてならない時がある。

一生懸命に勉強していても、合格するかどうか?というのは努力だけでは測れないことがある。

かつてパナソニックの採用試験で訊かれたことに、
今までの人生はついていたかどうか?
というものがあったそうである。

そしてついていた、と言った人を採用したそうだ。
なぜなら、それまでの人生を自分の努力だけで切り開いてきた、と考えるよりも、周りの人に対して感謝の気持ちがあるからだそうである。

全く違う観点ではあるけれど、授かるというのは受動的である。
その点、感謝すること以外の何物でもない。
自分の力ではどうすることもできないという側面がある。
だから、私は、あの時、自分の力ではない力を感じて、何か大きなものを畏れるような気持ちを経験したことを今、心底感謝している。
教師としての営みも、自分の力だけではどうにもならないところを、何か、ふと自分に授かって、必要なことに気づいて、実践していくしかないような気持ちでいる。
人を育てさせてもらう、などという大それた営みを日々していることに、ときにふと空恐ろしくなることがあった。
一度や二度ではない。
特に学校現場で働いていた頃は、その指導する人数の多さに、毎日自分がしていることの大変さを思い、ときに愕然とした。

今は、それぞれの受験において、それぞれの生徒さんの人生が肩に掛かっている・・・、といつも思っている。
毎日平気な顔して生活し、指導しているような顔をしながら、それでも、ときに自然にやっている受験指導の重さを思い、愕然とする。
何が私にこんなことをすることを赦してくれたのか?
私になぜこの場にいさせるのか?
なぜこの言葉を言う立場になっているのか?
思わず言った言葉が生徒さんや親御さんの心に響くとき、一生懸命考えた末に思いが届いたとき、いったい自分の中のどこからそんな言葉が出てくるのか?と空恐ろしくなる。
たかが高校受験や大学受験を乗り越えた、というだけで、人に何を語ることができるのか?
信念はある。
経験もある。
でも、ふと気づく、ということには誰かの力が関わっているかのような気持ちになる。

ということで、今年度の入試もあとひと月・・・、というところに来て、受験指導のさなかにいて、毎年時折自分のしていることを見つめて愕然としながら、次の瞬間には質問に答えている、という日々を過ごしているのである。

公開:2023/02/12 最終更新:2023/02/12