随分乱暴な類型論であるけれど・・・。ー母校についての思い。
卒業してからもずっと、高校入学してからの、なんとも言えない挫折感をどうしたら説明できるのか?と長年考えていた。
それはもうしつこすぎるほど。
当時の友達にも、合ってない・・・、と言われていた。
勉強が激しすぎるからだと思っていたのだけれど、私は勉強そのものは好きなので、それが大元の理由だとは思えなかった。
競争心があまりないタイプなのに、勉強が好きだから・・・、ということで入った私が甘かったのか?と思ってみてもどうも違う。
この複雑な気持ちをどうしたら説明できるのか?
みんながいいというものをいいとばかり思っていない自分は何なのだろう?と思っていた。
でも、先輩のノーベル文学賞を受賞された方も、旧制中学を嫌っておられたように感じるのである。
そこだけは、国文科同士という点も同じだし~。
高校時代を思うとき、どうしても頭に浮かぶ人が数人いらっしゃる。
その人たちに対する違和感は、どうもおおらかさ、という点に尽きるように思う。
私は、ある意味のんびりしたところもあるし、人にもおおらかだと言われるし、細かい人が嫌いである(いや、私も仕事においてはある意味十分細かい。(笑))。
いや、人に対してというか・・・。
だいたい神経質な人は嫌いだし、誰かに何かがあったら、そっと庇ってあげるような、そんなおおらかな人が好きだった。
ならば、私立ののんびりした学校にでも行ったらよかったと、後になって思うのは、当時の私の浅はかさのせいかもしれない。
別に卒業したことまで否定してなどいない。
学ばせていただいたことの多さのゆえに、今だって、結構教えることのできる内容は多岐にわたる。
思い出せば何でも教えることができるのも母校のおかげであるし、何かあっては、母校の先生方のありがたさや偉大さがわかる。
勉強ができて、競争にも決して負けるのではなくて、それでも品性もあり、洞察力もあり、考え深く・・・、など求めるのも無理なことだろうけれど、入学したときに、私が求めている物とは違う世界があった。
ということなんだな、と今思っている。
ほんのわずか数週間前のこと、最高裁で判決を覆された弁護士になった先輩がおられたことを知った。
なかなかに知る人ぞ知る業績だったようだった。
その先輩の話を知ったとき、なんだか腑に落ちた。
素敵だなあ、と思った。
反骨精神というか・・・。
スマートでなさにとても憧れた。
変な表現なのだけれど、一昨日だったかに、ピアニストの反田恭平さんと小林愛美さんが結婚されたことを知った。
なんとも嬉しくて、そして、そのご結婚に対して、なんともすんなりと喜べて、私などが言うことでもないけれど、納得!という感じだった。
それに似て、いや、おめでたい結婚と最高裁の判決とを同列に並べて語るのはどちらに対しても失礼というものだけれど、母校の先輩、ということであるなら、その先輩の業績を知って、何十年ぶりかで、私は納得し、腑に落ちたのである。
そんなガッツを求めて私は、母校に行ったのではなかったか?と思ったのである。
きっとその先輩は、卒業時はオーソドックスな進学とは言えなかったのではないかな?と思わされる。
業績を上げたから、大々的に卒業生!みたいな扱いではあるけれど。
まあ、そんな場所なのだろう。
その業績を読んで、私は、ああ、人のことが好きだったのだろうな、そこまで正義を貫くなんて・・・、と思わせてもらった。
お目に掛かったこともない先輩。
全く違う分野の先輩。
でも、私は、その方に、自分の思っていた母校の理想的なあり方を思うのである。
ものすごく勝手な理想だけれど。
心ひそかに、お目に掛かったことのない先輩を誇りに思い、母校を慕う気持ちのよすがにしたい。