寂しいと感じるときー自分はありのままの自分で十分尊いのだけれど。
私も人間だから、嘘をつくくらいのことはあります。
すべて本当のことを言っていたら、世の中は角が立って仕方がないだろうし、嘘も方便ならぬ、マナーとしての嘘はむしろつくべきだと思います。
それに、誰かを褒めるときに、良いところに気づいているのは本当なのだから、それを少々盛って褒めたりするのは、決して罪にはならないでしょう。
日本で初の平民宰相となった原敬首相は、毎日あれこれ人が相談に来るのに、一番の人には、
君の話は一番に聞かなくてはいけないと思ってね・・・。
と言い、最後になった人には、
あなたの話はゆっくりと聞かなければならないと思ってね・・・。
などと言っていたらしい。
そう言われた人は、うまいこと言っている、とは思いながらも、悪い気はしなかったらしい。
なかなか人心掌握のできる素敵な宰相ですね!
というわけで、ついた方がいい嘘というものは絶対にあると思っています。
誰にも迷惑かけずに、そしてちょっと世の中を渡っていき易くする程度の嘘はむしろ必要です。
何でもかんでも正直に話していいものでもない。
でも、私は自分の値打ちを上げるための嘘は良くないな、と思っています。
なぜなら、それは失礼だからです。
誰に?
自分に。
今ある尊い自分に自分が納得していなくて、その落差を埋めるためにつく嘘は、とっても残念です。
学歴詐称などはその最たるものだと思います。職歴もですが・・・。
自分が自分に、今まで生きてきた自分に納得してあげなくて誰が納得してあげられるというのでしょうか?
誰も褒めてくれなくても、自分だけは褒めてあげなくちゃ。
それに、自分の今いるところをほかのどこよりもいい、という表現をする人もいますが、正直イタイ。
周りが考える価値観で、ものを評価する人がいるなら、それで評価されておいて、勝手に自分で自分のいるところがいい、と思っていればいいのです。
周りに、何も自分のいるところが良かった・・・、とそこに行ったわけでもない人に説得をするほどばかばかしいことはありません。
卒業された大学を、周りからは最難関大学だと褒めたたえられながら、放置だから・・・、お勧めできない、と表現している人もいらっしゃるようなもので、周りの評価と自分の評価は違っていたりします。
何も周りに振り回されなくてもいい。
自分の来し方に自信があれば、盛る必要などないでしょう。
胸張って何かを言うことができるような生き方をしていたら、何も盛ることなどなくなりますし、誰かの弱点をしっかり握りしめようと、見つけるのに必死になることも、それをつかんでいようとすることもないでしょう。
鎌をかけて、何かが出てくるのを必死で待つこともないでしょう。
なぜこんなことを言うのかと言うと、気づいて嫌だったからです。
だいたいにおいて、誰かに、あることないこと言って、相手を陥れようとするときには何らかの心理的な意図があるものです。
自分を高い位置に置きたいというような・・・。
そういう言動を見聞きすると悲しくなります。
だいたい世間でそういう評価をするときと言うのは、何か良くないことをしたときです。
そういうときに、評価の仕方を強化するために使うだけです。
あなたはあなたでいいのよ。
別にほかの誰かにならなくたって・・・、と思います。
本当にしあわせな人は、別に人に認めてももらえてなくてもしあわせです。
しあわせそうに見えても、本人がしあわせでなかったら、それはしあわせではありません。
より幸せである方向に行けばいいのであって。
それに人を巻き込む気がしれない。