そういうことになっているのかもしれない話。
どうも、そうとしかならないことに決まっていたのではないかな?と思われることがいくつかある。
私には予知能力めいたものがある。
正直、霊感は全くないようである。
絶対に出る、というところに出入りしながら、全然その話を信じられなかったばかりか、スルーしてしまって、あちらの方でも張り合いがなく、出ておいでにならなかったのではないか?という経験もある。
なんだかここは印象的だな、と思っていたら、その後、そこに住むことになった、とか、その前に旅行で行ったところに、そののち縁があった、とか、ああ、あの時のことはここにつながるのか・・・?ということがやたらに多い。
そういうことになっていたのだな・・・、と思わされる。
なんでも運命というもがあるようで、でも、努力によって、その運命は少しずつ変わるらしい。
それも信じている。
あの時の努力はここにつながっていたのか・・・?と思わされるのである。
別に、そのスキルを学ぼうと思っていたわけではないのだけれど、仕事をしていて、自分がどれだけ貢献できるか?あるいは貢献できているか?ということを考えているうちに、その方面にちょっと通じていた、ということなどがある。
昔,嫌になって別れた人と、またお付き合いするようになって、やっぱり嫌だった、と思っても、結局お付き合いが続くという人もいる。
どちらかの努力によるものなのか、それともそうなっているのか?
どうしても離れられない人というものは存在する。
まるで策を練るかのように、自分にうまいこと行かせようと努力していても、どうしてもそちらには行かないということもあるだろう。
人のこころはどうすることもできないから。
何かで縛ろうとしても、人のこころは自由である。
ずっとそばにいてほしい、と思っても、そうあるように努力することを怠ったら、どこかに行ってしまうかもしれない。
そんな時を待っているような時間を過ごしている人もいる。
それなら努力すればいいのだけれど、それまでしていない努力はすることができないし、その努力をするには勇気がいる。
先日、カントの『啓蒙とは何か』という本を読んで、やっぱり勇気という言葉にすべては集約されるものだと思った。
私の場合、その多くは、変わる勇気である。
今の自分を変える勇気。
ときに違う価値観でも取り入れる勇気。
ときに言いにくいことも、本当に相手のためになると思ったら言う(正直、プライベートでは逃げます。言いたいことなど言いません。)勇気。
誰かとの関係性を守るために自分自身を変えていく勇気は、勇気の中でも最も大きい勇気だと思う。
自分など容易に変えることはできないから、変えると決意して変わり続ける人は、いつまでも若くいられるだろう。
その変わることも含めてなのか、それともそうでないのかわからないけれど、とりあえずそういうことになっているということはあるように思われてならない。
そういうことになっているからこそ、変えてみる勇気も、やはりそうなっているのか・・・、と受容するためにも、努力をし尽くす、というのは大事なことなのかもしれない。それでよかった、と思えるようになるために。