誰かを尊敬したり、信頼したりしたいと思うこころ。
ときに、こんな年して、誰かの言うことなら大丈夫、というような人にいてほしい、と思うことがある。
暗澹たる気持ちになる自分の心を見つめた挙句、ああ、私、だらしない思いをしているなあ、と気付く。
その昔、先輩で、仲良くしてくださっていた、それこそ尊敬できる先生が、「この人に聞いたら大丈夫、という先輩にいてほしいよね。」とおっしゃっていらした。
この先輩に聞いたら大丈夫、つまりは教育についての絶対に大丈夫な先達、ということになるのだろうと思う。
その先輩の言葉にアレッ?と思ったというようなことではない。
そうではなくて、その頃にはもう、誰かの言っていることを鵜呑みにして進めるほど、教育というのは甘くない、ということを実感していたのだと思う。
方法論の通用しない世界である。
というより、方法論で何とかなる世界などあるのだろうか?
一つ一つ経験を重ね、こういう時にはこうするのがいい、などということを積み上げていくのが教育である。
自分のやり方で授業をしていて、その後、先輩がしておられた方法でいきなり授業すると、その先輩がどれほど素晴らしい先輩であったとしても、人のやり方を真似してそれを実践してみた途端に、その授業は破綻する、などということも、教育実習時に経験していた。
どんな人とも出会ったら一期一会。
その人との出会いの意味がある。
自分にとって都合の良い人ばかりなら、毎日何の工夫もなく、何を考えることもなく、何の成長もないではないか。
都合の悪いこと、工夫の必要なことほど自分を成長させるのにありがたいことはない。
ちょっとしんどめのことが起こったら、私は工夫して、自分の生活の中に、そのしんどめのことをどう取り込んでいったらいいのか?ということを考え、工夫する。
そうして、いつの間にか、そのことに対応しているうちに、そのことが普通のこととして、自分の日々に滑らかに取り込まれて行っていることに気づく。
そして、そのこと自体が、自分のできることの一つとして、自分の生活のバリエーションを豊かにするものと重要なことになってくれている。
誰かと出会うと、その人が生きている背景も影響してくる。
考え方の違いも取り入れなければならなくなってくる。
そういうことがあるから、私は人と出会うことが大好きだ。
人間が好き、だとかそうでないとか言っているのではなくて、出会いがあれば学びがあるし、その人の考え方や感じ方について学べるので、自分の価値観も広がるし、いろんな考え方も取り入れることができるので面白い。
そういう意味で、この人だけは・・・、と尊敬する人を求めたり、信頼できる人が表れるのを待っているということ自体が、無意味に思えてくる。
主体性を放棄しているようで。
いつも自分の頭で考え、自分のこころで感じ、そして判断し続けなければならない。