短歌を詠んで、自分の気持ちを客観視する方法。
先日、友人が電話してきてくれて、結構長電話していました。
ちょうど整理のつかない気持ちを抱えているときだったので、ちょっとだけ話してみました。
それは、自分の身に起こったある出来事についてであって、別に悩みを相談したわけでもありませんでした。
そしたら、たぶんほかの同性の人だったら言ってはくれないだろうな、というようなアドバイスをしてくれました。
いつも、私の周りの人へのことよりも、私自身についてアドバイスしてくれます。
自分の気持ちに添って、状況を考えるよりも、自分のことを考えて・・・、というように。
あれこれ責任もなくはないし、不遜にも、抱えなくてもいいことまで抱え込んでしまって、責任を感じていたりするので、困ったものなのですが、その夜、次の日に出掛けることに気を取られて、ちょっと緊張して眠れなかったので、ベッドの上で、サラッとスマホのメモ帳に作った短歌をメモしておきました。
先日夢を見たことも関わって、私の若いころの思いなども、さらっと、調べるということもなく、できる範囲の修辞法を使って、五首ほど作ってみました。
かつて新卒で勤めた学校では、自分の思いを知るために、短歌を詠むことを推奨している面もあり、その添削をしておられた先生の原稿も読む機会をいただいていました。
その先生は、東大の哲学科を卒業されて、医学博士になられて、詩学にも造詣の深い先生でした。
その先生の三種類くらいある論考や添削を、その先生の弟子にあたる先生の奥様から、拝読する機会を得ました。
その中に短歌の添削があり、詩学からの論考があり、もう少し一般の人でもわかる平易ではあるけれど、体得するには難しいというようなものもありました。
中でも詩学的なものは、哲学があり、倫理学があり、頭でっかちだった私には、最も先生が手加減なく書いておられることがわかり、読み応えのあるものでした。
今、専門ではない哲学を語る場に、末端とはいえ出席させていただいているのも、その先生の論考を読ませていただいていたからだし、興味や関心をもち続けることができたのも、その時の影響だと思っています。
話は戻り、私は、どうもモヤモヤする気持ちを抱えて、ふと短歌にしてみよう・・・、と思い立ちました。
当時よりも、たくさん古文を読み、和歌について解説してきた今の方が、ずいぶん短歌にも馴染みが出てきています。
自分の思いを短歌にしてみました。
どうもわからない人のこころ。でも、その人の振る舞いはどこから来るのだろう?そうか、その人は大事な人の想いを体現しているのだな、とか、その人を助けたいと思いながら、何にもできなかったなあ、とか、子育て時代の自分の思いとか、あれこれ詠んでみました。
そうすると、その時の自分の思いと、それを生み出す原因となったことが意外にあっさりと自分から切り離されて、ああ、私って、こういう気持ちだったんだなあ、こういうことを考えていたのだなあ、と気付くこともできたのです。
こういう意味か。
短歌を詠みなさい、と言われていたのは・・・、と思いました。
生徒一人ひとりへの思いを短歌にされた先生もおられました。
私が指導していた、最後の年、高3ばかりもっていて、受験指導に精一杯で、とてもそうしている時間もなければ届ける暇もない、という状況でしたが、それよりもまだ、短歌を詠むことにそこまで親しんではいなかったように思います。
性格的に、不器用なら不器用なまま、手を出して、それなりに数を読んでしまっていたような気もするのですが、その当時はピン、とは来ていなかったのでしょう。
今なら、詠みもし、何なら添削も受けてみたい、と思うのですが、たぶん、それをするなら、また違う場所でのことになるでしょう。
短詩型文学をもつ日本の国。
そして日本人。
とんでもない宝物を持ちつつ、それはどこかで西欧哲学と馴染みがなくもないと思います。
哲学の先生のよると、ハイデガーもなかなかに日本の短詩型文学に関心を寄せていたらしいので。
でも、そういう連関から語るには、私には相当時間が要りそうです。
まだまだ習得しなければならないことの多い身ですので、そこは専門家にお任せすることにして、自分の専門は、きちんと見極めておきたいと思います。
それにしても、短歌に救われると思わされる日が来ることになろうとは、当時思ってもみなかったので、本当に嬉しいことに気づかされたものだと思っています。