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昨日気付いたことー自分軸と他人軸

割と主体的に生きてきた方だと思っていました。
先週だったか、私はある人の発言をお聞きして、潔く思え、その言葉は、その発した言葉を向けた相手の心を揺らすことなくご自分の気持ちを表現された言葉で、全く姑息でも卑怯でもなく、言葉に責任を持たれていて、私にはその潔さはないなあ・・・、と反省させられていました。

ときに、その相手の気持ちは?と考えがちです。
でも、その相手の気持ちも、こちらの気持ちがはっきりしなければ、決まらないのも本当のところで、自分の気持ちもはっきりしてないのに、相手の気持ちがどうのこうのと思うのは、おかしな話だなあ、と思ったのです。
意外な自分の受動的な面を見せつけられたようで、私は昨夜唖然としていました。
ああ、私、こういうところがあったんだ!

生徒にも、あなたの気持ちは?と訊きながら、この子、自分の気持ちがわかっていないのだな、と思うことはあります。
自分で考えなさい、と言ったところで、自分の気持ちがわからないのですから、訊く方も困っているかもしれないけれど、訊かれる方も困っているという話です。

たとえば、入塾の面談であっても、私が入ってほしいと明確に言わなければ、入っていいのかどうなのかはわからない、ということにもなります。
この生徒さんにはほかに行っていただいた方が、きっと効果的だろうと思ったときは別ですが(プロとして、それはきちんとお話しするべきだと思いっます。)、きちんと入塾してほしい、と私がお伝えしたうえで、どうされるかを考えていただくべきです。

最近、私は若い世代とお話しする機会が多いので、当然、昔の進路を決定するときの自分や、部活動をしていたときの自分、果ては恋愛していたときの自分などを思い出すのです。
恋愛模様などは、本人よりも周りの方がわかっているようで、周りにあれこれ言われても、私自身が認めていないものを私自身がわかるわけもなく、先日、生徒にあることを尋ねられて、答えていたことを思い出し、ああ、私って、○○なところがあったのかもしれないなあ・・・、と思い始めたのでした。

誰それに好かれた、愛された、そんなことは重要ではないよなあ、自分が誰を好きになったり、誰を愛したことがあったのか、ということの方が大切ではないかな?と思ったのです。
~された、より、~した、~だった、の方が素敵だな、と思ったのです。
めちゃくちゃ好きやってん・・・、と言っている人は素敵です。
○○って、私のこと好きやってみたい・・・、などと言うよりも。

こういうところが、よくある日本女性的な受け身なところがあるのは、きっと昔からだったのでしょう。

最近、恋愛とかそういうものではなくて、自分の思いに責任を持つ、ということは大事だな、と気付きました。
何も男女の愛だとかそういうものではなくても、誰それへの愛情に対して、責任を持つ、ということは大事だな、と腑に落ちたのです。

昔、それはもう中学生の頃のことですが、同じグループの友人から、あなたは、問題の核心から、スルッとうまく逃げる、と表現されたことがありました。
ある、ちょっと不良がかった同級生から、修学旅行前に、グループに入れて、と言われて、ほかのメンバーが、必死に考えていたのに、私は、ほかの人で決めて、と言ったらしいのです。
それは、私が、そのグループに入れてもらっていると思い込んでいたからで、全く責任逃れをしたつもりもなかったのですが、結果的には、私は結論を出す立場から逃げていたのでした。

私がどうしたいのか?というところから、もしかしたら逃げてきたのかもしれません。
どうしなければならないのか?は考えてきました。
そこには、結構母校の存在が大きくありました。
あるいは、大きく言うなら、使命とか正義とか。

でも、自分の気持ちに正直か?と言われてみれば、自分を鍛えるのもいい加減にしろよ、的なところもありました。

ちゃんと自分としっかり向き合ってみなければ・・・、と思わされる、ある人の発言でした。
きっと、大変に自分の気持ちを考えるきっかけになってくれることだろうと思います。
決して大ごとではなくて。日々の生活の中での自分の気持ちというものに。

公開:2022/09/25 最終更新:2022/09/25